SWのお出かけ~皇居周辺巡り(前編) [お出かけ・小旅行]
今年の9月連休(SW=シルバーウイーク)ですが、9/23と25日の2日間で皇居周辺巡りをしてみました。
元々予定は無かったものの成り行きで…。
1日目(9/23)は地下鉄竹橋駅付近からスタート。
写真に映っているお堀は平川濠、奥に見えるビル群は大手町方面。
上の写真は竹橋で、奥に見えるのは近代美術館。
実は近代美術館の企画展(ゲルハルト・リヒター展)を見る目的で竹橋に来たのですが、そのついでに皇居周辺を回ってみようかとふと思ったのが今回の行程のきっかけでした。
1日目は皇居東御苑の散策になりますが、当日は北部の出入門となる北桔橋門(きたはねばしもん)から入園しました。
北桔橋門の名前は江戸城本丸の北端に位置し、有事に備えて跳ね上がる構造の橋があったことに由来します。
北桔橋門のアップ写真。
門の前には警備員がいてかばんなどの手荷物チェックが行われていました。
(この辺りは後日行われる重要イベントのテロ対策といったところですが…)
北桔橋門を入ると見えるのが江戸城の天守台。
もちろんかつてはこの上に天守があったのですが…。
天守台についての解説を見ると、徳川家康の入城以来慶長度天守(1607年)・元和度天守(1623年)・寛永度天守(1638年)の3度にわたって天守が建てられましたが、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後に天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものとのこと。
ただしその後幕府内で天守は不要との結論が下されたため、この天守台には天守が建てられないままとなりました。
江戸時代の江戸城は天守があった50年間の後天守のない状態が210年間続きました、と記載があります。
天守台からの眺めその1。
写真の中央に北桔橋門がちらっと。
その奥には日本武道館の屋根も見えます。
天守台からの眺めその2。
写真の中央に見えるのは桃華楽堂。
香淳皇后(昭和天皇の皇后)のご還暦をお祝いして建設された音楽堂です。
その奥に見えるのは大手町のビル街。
天守台から見た江戸城本丸御殿の跡地。
現在では開放された芝生地になっています。
皇居東御苑は皇居の東地区(旧江戸城本丸・二の丸・三の丸の一部)を皇居付属の庭園として整備して昭和43(1968)年に完成し、宮中行事に支障のない限り一般に公開されています。
入園料:無料
休園日:月曜日・金曜日(祝日にあたる場合は開園)
※当日(9/23)は金曜日でしたが祝日(秋分の日)でしたので開園していました。
参考:皇居東御苑の略図(宮内庁ホームページ)
江戸城本丸御殿の案内。
本丸御殿は表・中奥・大奥という3つの空間に分かれていたと説明があります。
一つ前の写真で奥から表・中奥・大奥の順。
上の案内の写真では上から表・中奥・大奥の順で、右下が天守台です。
天守台・本丸の敷地と二の丸庭園の間にある汐見坂。
名前の由来はこの坂の上から海が望めたからだそう。
現在ではこの場所から海は到底見えませんが、江戸時代は現在よりも海岸線が近かったのでここからでも海を見ることができたと思われます。
汐見坂の途中から見た白鳥濠。
お堀を挟んで左側が二の丸庭園、右側が本丸の敷地ですがかなりの高低差があることが分かります。
当日は秋分の日(お彼岸)ということもあり、僅かながらもヒガンバナが咲いていました。
平川門の手前にある天神濠。
二の丸庭園から更に1段下にあります。
平川門の裏手に到着。
皇居東御苑の出入門の1つで、北東部の入口になっています。
門から外に出てしまうと再入園時にまた手荷物チェックを受けなければならないので裏手で引き返して二の丸庭園まで来た道を戻ります。
二の丸庭園の入口付近にある「都道府県の木」。
各都道府県を代表する木が順番に並んでいます。
庭園内には「諏訪の茶屋」と呼ばれる建物が。
明治時代に吹上御苑に建てられた茶屋を移築したものです。
二の丸庭園のメイン空間。
中央の通路を挟んで2つの池が配置されています。
二の丸庭園の案内。
元々二の丸には小堀遠州が造った庭園がありましたが、明治時代以降は荒廃していました。
その後昭和39年(1964年)に9代将軍家重の時代に造られた庭園を再現する形で現在の回遊式庭園になった、と説明があります。
二の丸庭園のメイン空間の様子。
シーズン中だと各種の花を見ることができますが、ちょうどシーズンの合間らしく特段花は拝めませんでした。
"こちらもシーズン中ならば菖蒲の花が咲いていると思われます…。
二の丸庭園から再び本丸の広場(跡地)に戻ってきました。
手前の広大な芝地が大奥跡で、その奥に江戸城の天守台が見えます。
ちなみに江戸城の天守ですが、最も規模の大きかった寛永度天守(3代目)は地上からの高さが58mあったと言われています。
本丸広場の反対側(表・中奥方面)。
本丸広場の西側(二の丸庭園の反対側)にある石室。
ちょうど本丸御殿大奥の脇に当たる場所で、用途は諸説ありますが火事など非常の際に大奥用の調度などを非難させた場所と考えられています。
石室の近くにある富士見多聞。
「多聞」とは長屋造りの防御施設で、旧江戸城で現存するのはここと伏見櫓の左右にある多聞のみです。
この富士見多聞は建物内部も見学可能です。
松の大廊下跡。
案内によると、「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士討ち入りの舞台となった場所であるとのこと。
皇居東御苑敷地のちょうど南端にある富士見櫓。
江戸城内で現存する櫓は他に伏見櫓・巽櫓がありますが、富士見櫓は本丸地区に現存する唯一の櫓です。
明暦の大火(1657年)で焼失したもののその後間もなく再建され、天守の代用としても使われました。
ここから将軍が富士山や両国の花火・品川の海を眺めたと言われています。
本丸広場から大手門方面へつながる坂道。
坂を右に曲がった辺りが中雀門跡になります。
ここから大手門にかけていくつかの番所(警備詰所)がありますが、これはそのうちの「大番所」。
明治期には改装されて作業所として使用されていましたが、昭和43(1968)年に江戸時代の姿に復元されました。
こちらは「百人番所」。
非常に横長の長屋造りの建物ですが、4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していたのが名前の由来の模様。
江戸城内で現存する3つの番所のうち一番手前(大手門側)にある「同心番所」。
ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。
江戸城の正門に当たる「大手門」。
大手門は高麗門と大手渡櫓門の2つで構成され、こちらは大手渡櫓門になります。
大手門の案内板。
案内板の右側にある鯱は明暦の大火後、江戸城再建時に制作されたものと考えられています。
こちらは大手門のうち高麗門。
皇居東御苑としても正門(メインゲート)に当たります。
本来ならば大手門がゴール地点になりますが、平川門の正面を見ていないのでここから平川門方面へと歩くことに。
ちなみに手前のお堀は大手濠。
途中小さい広場があり、中心にはなにやら偉人の像が。
像の右側の黒い案内板をよく見ると「和気清麻呂」という人物だそう。
(この場所も「清麻呂公園」と名付けられている)
清麻呂公園内にある「震災イチョウ」。
かの関東大震災での火災の焼け跡が木の幹に所々に残るものの、震災を乗り越えた大木として保存されています。
清麻呂公園の先、ようやく平川門が見えてきました。
平川門(表側)に到着。
1日目の行程はこれにて終了です。
当日は少々雨がぱらついた時がありましたが、雨が本降りになったのは日没後だったので散策中はほぼ支障なかったのが幸いでした。
~後半(2日目)に続く~
元々予定は無かったものの成り行きで…。
1日目(9/23)は地下鉄竹橋駅付近からスタート。
写真に映っているお堀は平川濠、奥に見えるビル群は大手町方面。
上の写真は竹橋で、奥に見えるのは近代美術館。
実は近代美術館の企画展(ゲルハルト・リヒター展)を見る目的で竹橋に来たのですが、そのついでに皇居周辺を回ってみようかとふと思ったのが今回の行程のきっかけでした。
1日目は皇居東御苑の散策になりますが、当日は北部の出入門となる北桔橋門(きたはねばしもん)から入園しました。
北桔橋門の名前は江戸城本丸の北端に位置し、有事に備えて跳ね上がる構造の橋があったことに由来します。
北桔橋門のアップ写真。
門の前には警備員がいてかばんなどの手荷物チェックが行われていました。
(この辺りは後日行われる重要イベントのテロ対策といったところですが…)
北桔橋門を入ると見えるのが江戸城の天守台。
もちろんかつてはこの上に天守があったのですが…。
天守台についての解説を見ると、徳川家康の入城以来慶長度天守(1607年)・元和度天守(1623年)・寛永度天守(1638年)の3度にわたって天守が建てられましたが、寛永度天守が明暦の大火(1657年)により焼失した後に天守再建を目指して万治元年(1659年)に築かれたものとのこと。
ただしその後幕府内で天守は不要との結論が下されたため、この天守台には天守が建てられないままとなりました。
江戸時代の江戸城は天守があった50年間の後天守のない状態が210年間続きました、と記載があります。
天守台からの眺めその1。
写真の中央に北桔橋門がちらっと。
その奥には日本武道館の屋根も見えます。
天守台からの眺めその2。
写真の中央に見えるのは桃華楽堂。
香淳皇后(昭和天皇の皇后)のご還暦をお祝いして建設された音楽堂です。
その奥に見えるのは大手町のビル街。
天守台から見た江戸城本丸御殿の跡地。
現在では開放された芝生地になっています。
皇居東御苑は皇居の東地区(旧江戸城本丸・二の丸・三の丸の一部)を皇居付属の庭園として整備して昭和43(1968)年に完成し、宮中行事に支障のない限り一般に公開されています。
入園料:無料
休園日:月曜日・金曜日(祝日にあたる場合は開園)
※当日(9/23)は金曜日でしたが祝日(秋分の日)でしたので開園していました。
参考:皇居東御苑の略図(宮内庁ホームページ)
江戸城本丸御殿の案内。
本丸御殿は表・中奥・大奥という3つの空間に分かれていたと説明があります。
一つ前の写真で奥から表・中奥・大奥の順。
上の案内の写真では上から表・中奥・大奥の順で、右下が天守台です。
天守台・本丸の敷地と二の丸庭園の間にある汐見坂。
名前の由来はこの坂の上から海が望めたからだそう。
現在ではこの場所から海は到底見えませんが、江戸時代は現在よりも海岸線が近かったのでここからでも海を見ることができたと思われます。
汐見坂の途中から見た白鳥濠。
お堀を挟んで左側が二の丸庭園、右側が本丸の敷地ですがかなりの高低差があることが分かります。
当日は秋分の日(お彼岸)ということもあり、僅かながらもヒガンバナが咲いていました。
平川門の手前にある天神濠。
二の丸庭園から更に1段下にあります。
平川門の裏手に到着。
皇居東御苑の出入門の1つで、北東部の入口になっています。
門から外に出てしまうと再入園時にまた手荷物チェックを受けなければならないので裏手で引き返して二の丸庭園まで来た道を戻ります。
二の丸庭園の入口付近にある「都道府県の木」。
各都道府県を代表する木が順番に並んでいます。
庭園内には「諏訪の茶屋」と呼ばれる建物が。
明治時代に吹上御苑に建てられた茶屋を移築したものです。
二の丸庭園のメイン空間。
中央の通路を挟んで2つの池が配置されています。
二の丸庭園の案内。
元々二の丸には小堀遠州が造った庭園がありましたが、明治時代以降は荒廃していました。
その後昭和39年(1964年)に9代将軍家重の時代に造られた庭園を再現する形で現在の回遊式庭園になった、と説明があります。
二の丸庭園のメイン空間の様子。
シーズン中だと各種の花を見ることができますが、ちょうどシーズンの合間らしく特段花は拝めませんでした。
"こちらもシーズン中ならば菖蒲の花が咲いていると思われます…。
二の丸庭園から再び本丸の広場(跡地)に戻ってきました。
手前の広大な芝地が大奥跡で、その奥に江戸城の天守台が見えます。
ちなみに江戸城の天守ですが、最も規模の大きかった寛永度天守(3代目)は地上からの高さが58mあったと言われています。
本丸広場の反対側(表・中奥方面)。
本丸広場の西側(二の丸庭園の反対側)にある石室。
ちょうど本丸御殿大奥の脇に当たる場所で、用途は諸説ありますが火事など非常の際に大奥用の調度などを非難させた場所と考えられています。
石室の近くにある富士見多聞。
「多聞」とは長屋造りの防御施設で、旧江戸城で現存するのはここと伏見櫓の左右にある多聞のみです。
この富士見多聞は建物内部も見学可能です。
松の大廊下跡。
案内によると、「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士討ち入りの舞台となった場所であるとのこと。
皇居東御苑敷地のちょうど南端にある富士見櫓。
江戸城内で現存する櫓は他に伏見櫓・巽櫓がありますが、富士見櫓は本丸地区に現存する唯一の櫓です。
明暦の大火(1657年)で焼失したもののその後間もなく再建され、天守の代用としても使われました。
ここから将軍が富士山や両国の花火・品川の海を眺めたと言われています。
本丸広場から大手門方面へつながる坂道。
坂を右に曲がった辺りが中雀門跡になります。
ここから大手門にかけていくつかの番所(警備詰所)がありますが、これはそのうちの「大番所」。
明治期には改装されて作業所として使用されていましたが、昭和43(1968)年に江戸時代の姿に復元されました。
こちらは「百人番所」。
非常に横長の長屋造りの建物ですが、4組の鉄砲百人組が昼夜交替で勤務していたのが名前の由来の模様。
江戸城内で現存する3つの番所のうち一番手前(大手門側)にある「同心番所」。
ここには主として「同心」と呼ばれる武士が詰め、登城者の監視に当たっていました。
江戸城の正門に当たる「大手門」。
大手門は高麗門と大手渡櫓門の2つで構成され、こちらは大手渡櫓門になります。
大手門の案内板。
案内板の右側にある鯱は明暦の大火後、江戸城再建時に制作されたものと考えられています。
こちらは大手門のうち高麗門。
皇居東御苑としても正門(メインゲート)に当たります。
本来ならば大手門がゴール地点になりますが、平川門の正面を見ていないのでここから平川門方面へと歩くことに。
ちなみに手前のお堀は大手濠。
途中小さい広場があり、中心にはなにやら偉人の像が。
像の右側の黒い案内板をよく見ると「和気清麻呂」という人物だそう。
(この場所も「清麻呂公園」と名付けられている)
清麻呂公園内にある「震災イチョウ」。
かの関東大震災での火災の焼け跡が木の幹に所々に残るものの、震災を乗り越えた大木として保存されています。
清麻呂公園の先、ようやく平川門が見えてきました。
平川門(表側)に到着。
1日目の行程はこれにて終了です。
当日は少々雨がぱらついた時がありましたが、雨が本降りになったのは日没後だったので散策中はほぼ支障なかったのが幸いでした。
~後半(2日目)に続く~
2022-09-26 20:30